インタビュー
  >> バックナンバー
vol.01 tikyo x-ray SpyD image
  ハードトランスがガンガンかかるレイブパーティ。ここ最近ちょっとしたブームになり、野外ならひとつのイベントで1万人を超える動員も珍しくなくなった。音と光とデコレーションの絡み合いで、日常とは完全に切り離された世界を展開している。その中でひときわ目立つのが幾つもの巨大スクリーンに映し出されている映像だ。音とシンクロしており、踊りながら時折目を向けても、ぼーっと眺めていても、音との絡み合いで映像が空気の一部になったような錯覚に陥る。
今回のインタビューでは、そんなレイブパーティでは明らかにトップクラスに位置するVISION QUESTのレジデントVJであるSpy Dに、今までの流れや現在、そしてこれからについて聞いてみたものを2回に渡ってお届けする。

そもそもVJとは何かというと、数年前から日本やヨーロッパを中心にクラブカルチャーから発信されたものである。DJが用意したレコードをその場の雰囲気やイベントの趣旨にあわせて選択して流すのに対して、VJは同じように、用意した映像をその場の音などにあわせて選択して流すことを仕事とする。技術の進歩も伴いVJは瞬く間にブームとなり、TVや雑誌で取り上げられ書籍も多数出版されるなどして、その人口も増えていった。そんな中から何組かのVJは際立った存在となっていき、映像チームTokyo X-rayを率いるSpyDもその一人であった。

2回目となる今回は、VJをやっていて周りの環境などにはどんな変化があったか、今の活動の中心、そして今後どういった方向に進んでいきたいかを掘り下げて聞いてみた。

::VJを始めたきっかけと多くのVJが途中で辞めていく中、続けている理由はなんですか
具体的に何のきっかけで始めたかは確かじゃないんだ。
ただ企業がらみのプロジェクトでDimension7(サンフランシスコベースで活動するVJ)と一緒にその時あった最新の技術で遊んでいたのがきっかけかな。
映像自体と絡み始めたのは、1993年にあった映像中心のイベントでPCやソフトウェアの技術者で裏方として始めて、少しずつ自分の映像スタイルを築いていったんだ。


イベントでやるVJとしての仕事は、1998年に日本に来た時に僕にとってかなり大きなものになったね。日本で見たたくさんのイベントで、エンターテイメントビジネスへの思いや、そこで出会った人々とのつながりを感じたんだ。
VJをやればやる程そこで展開できる芸術の可能性やデジタルの未来を感じていくんだ。
結局はこのメディアを通しての芸術のポテンシャルを強く感じ続けていることが、僕がこれを始めたきっかけであり、続けている理由だろうと思う。

::当初の環境や苦労について聞かせてください
VJとして始めた頃は全てが少しずつゆっくりと成長している感じだったよ。僕もちょっとずつ自分のテイストをクラブやファッションショウそしてエキスポなんかで流す映像にも入れ始めたのさ。
世紀末になった頃、僕はまだ小さなクラブやアンダーグランドイベントなんかで狂ったように働いていたよ。週5日間スタジオで働いてから3夜連続で週末のイベントへ、全ての機材と共にタクシーで走り回っていたよ。

あの頃のクラブは天井も低かったし壁も真っ黒で、独りで映像を映せる環境を作ることがとても大変だったね。その頃は大体夕方5時くらいにはクラブに入って、プロジェクターの映像が人に当たらないようにしたり、スクリーンを張る場所を決めたりに4,5時間は使っていたんだ。そもそもDJと照明さんの場所はあるのにVJブースなんてものはなかったから自分の居場所から探さなきゃならなかったよ。
苦労と言えば機材的な面でも大変だった。当時の機材は今より全然でかくてとにかく重かったから、持っていくのも、吊るすのも、置き方さえも毎日が大きな挑戦だったよ。
今考えると大変だったなと思うことはたくさんあったけど、当時はそれらでさえも楽しんでいた気がする。クラブにいること自体が元々好きだし、毎週末何かしら技術的なことや芸術的なことでも新しいことを学んでいたからね。
<参考URL>
www.nowondvd.net
spyd@tokyoxray.com
www.tokyoxray.com

次週(9月13日更新分)に続く
>> バックナンバー